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サラブレットに生まれて

さて、これまで「自伝」として自分自身のことを書いてまいりました。

今回は、「自伝」といえば「自伝」ですが、ちょっとだけ方向が違います。


私の両親は卓球をやっており、かなりの実力者でした。

父親は全日本学生で準優勝という選手で結構強かったそうです。

母親にいたっては「全日本3位」で「日本代表」「世界選手権ダブルス3位」「アジア大会ダブルス優勝」という

とんでもなく強い選手だったそうです。

インターハイや全日本学生もダブルスで優勝しており、前回記述した関東学生リーグも

当然のごとく4年生の時に主将を務め優勝に導いているそうです。

そんな両親のサラブレットとして生まれた私ですが、両親から卓球を教わったことは一度もありません。

私自身、教わりたいという気持ちが全くなく、両親ともに教える気持ちはなかったと思います。

そればかりか「卓球やめたら?」「いつまで卓球続けるんや?」といつも言ってくるような親でした。

半分本気で半分冗談だったと思います。半分の本気部分、今なら親の気持ちがわかります。


誰も口にはしませんが、我が家には「我慢」と「努力」こそが美学とする空気がありました。

卓球をやっていたら、結果はともかく苦しいことが山ほどあります。

成功するためには、この山をいくつ越えなければならないのでしょうか。

自分のDNAを受け継ぐ子供であれば、おそらく「我慢」「努力」が度を過ぎるのではないかと思う度に、

自分の子供に同じ道を歩ませたくないと思っていたのではないでしょうか。

もしくは、同じ道を歩ませても良いものなのか判断がつかなかったのかもしれません。


クラブチームに所属していても、指導はクラブに一任しており、全く口出ししませんでした。

それでもやはり気にはなるようで、母親は試合に来たがりましたが「来なくていい!」と突き放していました。

母親はたまに見に来てましたけどね。

父親に関しては、初めて試合に来たのが大学4年の全日本学生選手権でした。


私の卓球人生、大した成績は収められませんでしたが、自分が納得いくところまで自由にやらせてもらいました。

おかげで強くなれました。もし、両親に卓球を教わっていたとしたら、私は弱かったと確信しております。

黙って支援してくれた親の姿を見ていて「好きなことを自由にやる」ことの責任も学びました。

ある意味、両親から全てを教わっていたのかも知れません。


両親はいつでも私自身のライバルでした。

私は尊敬できる両親の子供に生まれて幸せです。長生きして欲しいですね。
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愛する中央大学

私は、中央大学を心から愛しています。

こんなに良き思い出はありません。まさしく青春です。


両親が通っていた中央大学。

当時は少し低迷しておりましたが、卓球の名門中の名門です。

大学としても一流の大学です。

中央大学から誘いがきたときは、親のコネで行くみたいで気乗りがしませんでした。

しかし、インターハイで結果を出したことで、この気持ちを吹っ切ることができました。

中央大学の卓球部は寮に入ることが絶対条件でした。

最近では少なくなってきましたが、上下関係の厳しい部でした。

前回の記事で書かせていただいた首謀者が、入学前に「最近の中央大学は低迷しているから

俺が行って強くしてやらなあかん」と言ってたと先輩方にリークしていたそうです。

大学のことについて無知である私が言うはずもない言葉で、聞いたときはビックリしました。

受験のときに大学の寮に泊まることになり、先輩方に挨拶しに各部屋をまわりました。

その度に、「お前がうわさの~~~~。」と何度も言われました。

初めて会う人に勝手に人格を決められ、勝手に嫌われていました。

受験日と全日本選手権の日程が近く「受験」と「試合」両方の目的で東京に行っていました。

中央大学には女子部もあり、試合のときに「あんたがうわさの~~~~。」ってな感じでした。

こういったことには慣れっこになっていたのと、寮で一緒に生活すれば誤解は解けるはずですので

特に気にはしていませんでしたが、気持ちのいいものではありませんでした。

初めて会う人全員が全員、何もしていないのに私を嫌っていました。ただ一人を除いて。

この人物が後のダブルスのパートナーであり本当に心を許せる最高の友人です。

彼は私のうわさを以前から聞いていたようですが、初対面から全く壁を作ろうとしませんでした。

何年も人に壁を作られていた私としては、戸惑いと嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

彼は影響力の強い人物で、彼のおかげで私の誤解は一気に晴れました。

そして同学年の4人は仲が良くなり、やっと心を許せる仲間に出会えました。

次第に「こいつらと本気で喜び合えるチームを作りたい」と思うようになりました。


東京の大学では個人差はあるものの、関東学生リーグという試合に重きをおきます。

大学の名誉を賭け、春と秋の2回、6校が競い合う激しい試合です。

「大学4年の秋リーグでシングルス・ダブルス全勝で優勝する」という目標を掲げ、1年のときから練習に明け暮れました。

幸い中央大学は朝から夜まで練習ができる環境でしたので、1年生の頃は授業にも行かず、毎日1日中練習をしておりました。

練習してくれる人がたくさんいることが私にとって喜びだったのでしょう。

また、先輩方が「お前ならできる」といつも後押ししてくれることが嬉しくて度が過ぎた努力も続けることができました。

この頃は、日に日に強くなっていくのがわかりました。毎日強くなっていくのです。


高校時代はインターハイまで全く無名だった私が、大学2年で全日本選手権ベスト32までいき、

試合内容もベスト16までもう一歩というところまで成長しました。

大学3年でも全日本選手権でベスト32と全日本ランキングまであと一歩でした。

なぜこんなに頑張れたのか、理由は一つでした。

「高校時代に無名だった選手でも、頑張ればできる!」ことをみんなに証明したかったのです。

この姿を見て、後輩たちが「俺にもできるかもしれない!」と思ってもらいたかったのです。

私個人の結果は特に得ようとしておらず、前述した一番の目標のためだけに全てを注いでいました。

したがって、チームが仲良くできる環境には配慮しておりましたが、規律にも厳しくしました。

決めたわけではありませんが、同学年の4人で役割がはっきりと別れておりましたので

私は厳しく頼れるリーダーに徹しました。

他の3人は、厳しさからの逃げ道になってもらったり、楽しむこと専門になってもらっていました。



そして運命の秋リーグがやってきました。

第2戦でまさかのチームが敗退する事態となり、絶体絶命のピンチに陥りました。

しかし、そのチームは優勝争いにもつれ込まなかった為、残りの3試合全て勝てば優勝できました。

もう負けられない。

勝負の明治大学戦の前夜ミーティングで私は「僕が何としてでもシングルとダブルで2点取るから

残りの2点をみんなでよってたかって取ってくれ!」と勝つ覚悟を決めました。

何を隠そう私はリーグ戦成績が秋リーグ開幕時で9勝21敗と酷い結果でした。

このときばかりは絶対に勝ちは譲れない気持ちでした。このときほど、腹をくくったことはありません。

「この体が後でどうなってもいいから、最後まで持ちこたえてくれよ」と本気で思っていました。

結果は宣言通り、シングルスとダブルスの2点取りし4-2で勝利しました。

しかし、最終日の専修大学戦に勝利しないと優勝はありません。

このときのチームメイトは勝ち以外全く見えておりませんでした。

専修大学戦当日、前日まで活躍していた選手たちが一変した試合内容であっけなく敗退してしまいました。

1番での私の勝利と4番でのダブルスの勝利で2-2の同点。

5番で我がチームが誇る最強戦力のエースがまさかの敗戦により2-3の絶体絶命の大ピンチ。

6番には高校時代から世話をしてきたかわいい後輩が、相手チームのエース格の選手と対戦。

正直、周りからすると、この時点で専修大学の勝ちとみられる組み合わせでした。

私は後輩に絶対の信頼をしておりました。

試合の前夜、オーダーを決める為、監督と電話で話し合いました。

誰を出すかで迷っている様子だったので、この後輩を出してくれと頼みました。

この後輩は努力だけは人の何倍もする男だったので、絶対にやってくれるはずと期待しました。

結果は、セットカウント1-1の15-20(当時は21点先取)で負けていました。

あと1点取られたらチームは敗退する状況で、誰もが負けたと思ったことでしょう。

ここからまさかの7点連取(倒れながら必死に喰らいついたラリーも制し)で勝利しました。

チームは3-3の同点に追いつきました。

会場中がざわつき始め、ムードは一気に中央大学ムードになりました。

がしかし、隣のコートで同時進行していた7番は1セット目を取られ、13-17で負けていました。

そこから何とか逆転し、3セット目も勝って奇跡の大逆転劇が起こりました。

目標が達成でき、本気で目標に向かっていたにもかかわらず、喜び方がわかりませんでした。

ただただ涙がこぼれてきて、どうしていいのか不思議とわかりませんでした。


本気で喜び合える仲間たちと本気で喜び合えたことが、私にとって何よりの宝物です。


実はリーグ戦にはほとんど高校時代に名をはせた選手ばかりが出場しますが、この時の中央大学の

主力には高校時代に成績を収めた選手が私を含め2人しかいませんでした。

誰もが奇跡と呼び、こんなにすごい試合は見たことがないと多くの方に祝福してもらいました。


目標を達成し、ゆっくりと考えると私は「本物の仲間が欲しかったんだろうなぁ。」と思います。


その年の全日本選手権では、念願のベスト16に入り、ランキング10位をもらいましたが、私にとってこの成績はおまけです。

このときのチームメイト全員の助けにより得た結果です。

みんなほんまにありがとうな!この長い文章を書いている間に何回泣いてしまったことか。。

みんな元気かな~。

私を強くしてくれた高校時代

「私を強くしてくれた高校時代」と題していますが、このことを知っている人が見たら、

「よくそんなことが言えるなぁ。」と言われるかもしれません。

高校時代の経験が私を強くしてくれたことは間違いありませんので、思い出を美化しています。


当時全国でもトップクラスである東山高校へ入学するとともに、高校3年の京都インターハイで

活躍することを夢見て必死に練習しました。

先生の言うことを聞いていれば、必ず強くなれると信じ、頑張っていたつもりになっていました。

どうやらこの考えがまずかったようです。

「媚びている」と周りの反感を買ってしまい孤立してしまいました。

その後は、いわれもない罪を着せられたり、言ってもいないことを言ったと陰で告げ口され

私と練習する人はテキトーにやったりと散々な目に遭いました。

また、2年生になると後輩ができますが、後輩たちは私と居残り練習することを禁止され

断らなかったら、帰ってから下宿で体罰をうけるそうです。

私は実家から通っておりましたが、名門校である東山高校は当然ながら、

他県から強い選手が集まってきており、みんな下宿しておりました。

そう、私がこの状況に陥ったのには首謀者がいて、作為的に陥れられたのです。

具体的に書きすぎると、関係者の方に迷惑がかかるのでこれ以上は書けません。

しかし、首謀者はなかなか私の目の前ではしっぽを出さず、決定的な証拠がないため

反撃することができませんでした。

どう考えても明らかではあったのですが、私が首謀者と喧嘩もしなかったのには訳があります。

腕っ節には自信がないわけではありませんでしたので、状況があまりに辛いときに

実家で「もういい加減どついたる!」と愚痴をこぼしたときに、卓球について全く何も言った

ことがない父親が「どついてもええ。別に止めへん。でも、どついたらお前の卓球人生は終わりやで。

それでもええんやったらやれ。」と言われました。この言葉がずっと私の心を支えてくれました。

本当に辛い毎日でしたが、父親のおかげで我慢することを心に決めることができました。

しかし状況が変わるわけでもなく、練習相手は同じ京都からともに入学した同級生とクラブの後輩、

一般生に限られてしまい、彼らにも被害が及ばないように配慮しながらの練習となりました。

この状況下で練習相手をしてくれたチームメイトには感謝しています。

こんな高校生活を送っていた私は、いつしか近しい人間以外は一切信用できなくなってしまいました。

完全に人間不信です。

自分さえしっかりしていれば生き抜けると本気で思っておりました。

しかし、この経験が私自身を強くし、自分で強くなることを求めるようになったのでしょう。

今ではこの経験に感謝し、2度と同じ境遇に置かれる人を作らないで欲しいと切に願っております。

話を戻します。

高校3年の京都インターハイでは、地元開催であるため何としてでも団体で優勝することが求められておりました。

もちろん私は団体戦のベンチには入っているものの、試合に出ることはありませんでした。

こんな状況のチームで私が出場し、チームメイトが応援できるでしょうか。まずできないでしょう。

結果は、決勝でオール1年生の青森山田高校に決勝で惜しくも敗れ2位でした。

必死で応援はしておりましたが、心から勝って欲しいという思いにはどうしてもなれませんでした。

個人戦に入り、ランク決定戦(ベスト16を賭けた試合)では、昨年度の全日本ジュニア3位の

選手に人生最大の大当たりの試合をしてストレートで勝ちました。

地元開催で、幼少期から慣れ親しんだ体育館(思い出の初めて出た試合の体育館)で

最高のパフォーマンスの試合ができ、これほど嬉しいことはありませんでした。

しかも、クラブチームのママさん達が黄色い声援で応援してくれていたことは今でも忘れません。

自分ひとりで強くならなければならない状況でしたが、応援してくれる人はいたのです。

皆さんに感謝です。家族に感謝です。

「目標に向かって努力し続ければ必ず達成できる」ということを身を持って体験しました。

ちょっと辛すぎましたけどね。

少しだけ強くなった中学生時代

前々回にシェークに変えたことが卓球人生の転機となったと記述しましたが、

決してその先の卓球人生が華々しいものではありませんでした。

中学時代の戦績は特筆するものは何一つありません。

でも、ペン時代よりは少し強くなり、可能性も出てきていたのではないでしょうか。


シェークに変えてからは、何にも目もくれず、ひたすらフットワーク練習ばかりやっていました。

当時通っていたクラブチームは京都の名門「スイトピア」というクラブでしたが、

全国で活躍できるほどのチームではありませんでした。

私には5つ年上の兄がいて、その兄の世代は全国で活躍する選手が男女共に数名いるような

本当に強いチームでしたが、私の世代は全国大会2回戦敗退というのが多かった気がします。

このクラブチームの特徴が、練習内容は基本的に自由ということです。

私が通っている間に、先生が数回変わっていますが、練習スタイルは変わりませんでした。

※現在のスイトピアの方針等は存じませんので誤解のないようにお願いします。
 あくまでも当時のことです。

好きなだけフットワークをやって、ひたすら3球目攻撃をするスタイルを構築するべく

練習に明け暮れました。

当時の先生に、「モノの考え方を違う視点で捉える」ということを教わりました。

頭の固い私に「物事の考え方は一つではなく、様々な考え方があるんやで」と教えていただき

次第に先生の考え方の虜となっていました。

中学2年生の夏の大会時、全国中学校大会になんとしても出場したいと思っていた私に、

「それだけ頑張ったんやから、心配しなくてもきっと結果は出る」と言ってくれました。

その時初めて自分が無我夢中で練習していたことに気が付きました。

そんなことにも気が付かないほど夢中になっていたのでしょう。

先生の言葉を信じ、自分を信じ、予選中も気を抜かず頑張った結果、周りの予想を覆して

全国中学校大会の出場権を手にしました。

当時のクラブチーム所属者からは私を含め、3名通過となりました。

このときに「やればできる!」と自信を持ち始めました。

残念ながら、本選は2回戦敗退でした。

中学3年になっても全国中学校大会は出場しましたが、結局2回戦敗退と進歩がありませんでした。

しかし、中学2年のときの全日本カデットでは、大した成績ではないが、ベスト32で

前年度3位の選手にゲームオールデュースの試合ができたことはある意味自信になりました。

これらの成績で、地元の名門 東山高校に推薦入学させてもらうことができました。

高校3年のときに、京都でインターハイがあることが決まっていたので、東山高校でもまれれば

そのときに華を咲かせることができるのではないかと期待して進学しました。

と、まあ、ここまでは特に何の変哲もないただの思い出話です。

この先に、私自身を大きく変える、いや、私自身が大きく変わらなければならないことが起こります。

停滞期から卓球人生の転機へ

卓球を始めたのは、今から丁度25年前の9月1日です。

その私が、今では愛知県の岡崎市でMikawa Black Pine’sという卓球教室で指導をしておりますが、

25年前にすべてが始まっていたのかと思うと感慨深くなってきます。

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小学校1年生から卓球を始め、毎年全国大会に出場していましたが、小学校5年生から

中学校1年生までは全国大会の予選を通過することができませんでした。

小学校2年生の時に全国大会でベスト8まで勝ち進み、ランキング5位という

成績を残したことが停滞期の始まりだと感じております。

全国大会でベスト8になると翌年の予選は免除となるため、油断していたようです。

また、自分は全国で5番目に強いと思って調子に乗っていました。

戦型は右ペン表で、サーブが得意なだけの選手でした。

この頃からの思い上がりが、どんどん自分を弱くしていったことは言うまでもありません。

練習も気が抜けていたでしょうし、今思い返しても特に思い出せないほど、なんとなく練習していました。

結果、全く強くならず全国大会の予選を通過できなくなっていました。

ラバーを裏に変えても大して何も変化がなく、サーブとバック技術だけ上手い選手でした。

中学生になっても大して何も変わらず、どんどん卓球が面白くなくなってきました。

昔の成績だけが輝かしく、今の自分を受け入れられない状態が続いていました。

中学1年の10月頃にクラブの練習の休憩時間にシェークのラケットで遊んでいました。

「クラブの先生が、シェークにしてもいいんじゃない?」と言ってくれたことが卓球人生の転機となりました。

両親と話し合って、ペン表に戻すか、シェークにするかを散々悩んだ挙句、シェークにすることに決めました。


不思議なことに、シェークに変えた途端、卓球が面白くなりました。

もちろんペンのときより弱くなっているので、必死で練習をするようになりました。

地元の強豪高校である東山高校の監督さんからは、急にシェークに変えたことでそっぽを向かれましたが、

自分の意志は変わらずシェークでやることを心に決めました。

中学2年のときに全国中学校大会に出場することを近い目標に設定し、日々努力することができました。

ペン時代のときには苦手だったフォアーが得意になり、積極的にフットワーク練習するようになりました。

シェークにしてすぐの試合で優勝し、「これでもいける!!」と確信しました。

なかなか思い切って出来ることではありませんが、これが卓球人生の転機となりました。
プロフィール

Morihiko Kobori

Author:Morihiko Kobori
☆経歴
東山高校卒業
中央大学卒業

☆戦績
インターハイ
 シングルス ベスト16
全日本学生選手権
 シングルス ベスト16
 ダブルス ベスト4
関東学生選手権
 シングルス ベスト4
 ダブルス 優勝
関東学生リーグ戦
 団体 優勝
全日本選手権
 シングルス ベスト16
 ダブルス ベスト16

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